幸せの種ふたつ

 いつものようにソファの上で横になり、特に見たい番組がある訳でもないのに、やる事がないからという理由で、大して面白くもない画面を視界に写していた時だった。ベランダからトントンと、何かがぶつかる音が聞こえてきたのは。
 誰が来たのだろうと考えたところで、答えは分かっている。自身が滞在しているために、わざわざ警備の人数を増やし、セキュリティが強固となっている高層マンションの最上階に近いベランダから訪ねてくるのは、一人……否、一匹しかいない。
 ノクティスは腹の上で開きっぱなしになっていた雑誌をサイドテーブルの上に置くと、その重い体を起き上がらせる。そして、ゆったりとした足取りでベランダに向かう。
 カーテンを開ければ、ノクティスの予想通り、そこには、アンブラが荒い息を上げながら「早くここを開けて」と言わんばかりの瞳をノクティスに向けていた。その様子に思わず相好を崩し、ベランダのドアを開ける。すると、アンブラはノクティスが思わず尻餅をついてしまう位の勢いで、飛び込んできた。

「どうした、アンブラ。いつにも増して、勢いがすげーな」

 そう言いながら、慣れた手つきでアンブラの背に手を回す。布から、見慣れた手帳を取り出して、パラパラと捲る。自分たちの8年間の軌跡を辿っていると、最後に自分が貼ったステッカーが目につく。そこで指の動きを止めると、その隣のページに視線を遣る。ルーナが貼った新しいステッカーには、こう書かれていた。

『もうすぐ、クリスマスですね。ノクティス様は、何か欲しいものがありますか?』

 視線を上げて、ラックの上に置かれているカレンダー付の時計を見ると、日付は15を指していた。

「もう、そんな時期なんだな」

 ノクティスが独りごちると、アンブラが覗き込んできたので、その頭をぽんぽんと穏やかな手つきで優しく撫でた。
 この時期になると、ルーナとオレはクリスマスに肖って、アンブラを通じて、お互いに贈り物を送り合っている。会える距離におらず、アンブラ以外の連絡手段もないので、事前に、お互いに欲しいものを尋ねるというのが幼い頃から習慣化していた。予め訊いてしまっているため、プレゼントを贈ることにサプライズもなにもないが、自分達の場合は仕方ない。
 ……もし仮に、オレが王子という立場ではなく、ルーナも神凪という身分ではなく、普通の一般人であったならば――クリスマス当日に、ルーナと会って、美味い飯を食って、ルーナが驚きのあまり、開いた口が塞がらないような、感激のあまり、思わず涙をこぼしてしまうような、そんなサプライズをしたかったが……現実はそう甘くはない。プレゼントを送れるだけ、マシだろうと毎年、不承不承、自分自身を納得させる。
 今年もまた渋々、納得しながらも、なんだかんだ、今年もこの季節がやってきたと気分を高揚させる。ノクティスは、近くにまとめて置いてあったステッカーの中から一枚をとり、そして、次のページに貼り付けた。

『ルーナがくれるもんなら、何でも。ルーナは?』

 例年、お決まりのステッカーだ。いつもと同じステッカーを貼るのは、面倒だからではない。貼られたステッカーに、何ら嘘偽りはない。本当に、ルーナから貰えるものなら何でも嬉しいのだ。誇れることではないが、整理整頓を不得手とするのにも関わらず、ルーナから貰ったものだけは、クリスマスプレゼントに限らず、机の中に、大切に仕舞ってある。
 ノクティスは貼られたステッカーをそっとなぞると、そのまま手帳をぱたんと音を立てて閉じた。アンブラの背中へと、その手帳を託す。

「しっかり届けてくれよな」

 アンブラの両頬に顔を近づけながら、その両手を添える。ノクティスの問いに頷くように、アンブラは「わん!」と強く吠える。そして足早に、来た道を辿り始め、ノクティスの視界からその姿を消した。
 部屋に一人残されたノクティスは、おとがいにその手を添える。
 さて。

 ――今年は、何をルーナに贈ろうか。

 去年までは中学生だったという事や、父親であるレギスの金を用いて、プレゼントを贈るのは、自尊心が許さなかった事から、自作のプレゼントを贈っていた。しかし、今年はアルバイトをして、自身の力だけで手に入れた金がある(しかし、プロンプトと連日のようにゲームセンターに通っていたため、残金は心もとない)。
 その金を使って、今年は少しばかり金のかかったものを贈りたいのだが……つい最近まで、世俗的なものとは疎遠だった人間だ(今は王宮を離れ、インソムニアで一人暮らしをしている分、多少は世俗的なことが身についた、と自負している)。如何せん、具体的なものが脳裏に浮かばない。何を渡したら、ルーナが喜ぶのか……なかなか、思い浮かばない。
 それでも、折角、贈るのであれば――ルーナが喜ぶものをあげたい、とは思う。それこそ、今までで1番喜ぶようなものを。
 とりあえず、雑誌やインターネットから情報を手に入れるために、ノクティスは、フローリングから立ち上がり、スマートフォンが置いてある自室へと向かう。主がいなくなった部屋は、いつまでもテレビの声が響いていた。



「それで、夜中まで、ずーっとルナフレーナ様にあげるプレゼントについて考えていた結果が、これな訳だ」
「……うっせ」

 日が早急に沈んでいく中、前に座るプロンプトが、椅子に跨るようにして座って、これでもかと口角を上げながら、両手で頬杖をついて此方を見ている。此方を見ているが、その目線は時々、下――ノクティスの机――に向けられている。ノクティスの机には、多くのプリントが、まるでタワーのように積み重ねられていた。
 日頃から、真面目に授業を受けた事が無い(授業のほとんどを睡眠に費やしている)が、昨夜は、検索するのに夢中に成ってしまい、いつもより夜更かしをしてしまった。その所為で、いつにも増して、授業中の睡眠時間の割合が大きかった。授業の始まりと共に、頭は下を向き、授業の終わりと共に、その頭を眠気まなこで上げていた。もちろん、授業の内容は、微塵も頭に入っていない。
 何だかんだ毎回、見逃してくれていた教諭も今回は、流石に堪忍袋の緒が切れたのだろう。放課後に突然、校内放送がかかり、促されるまま職員室へと向かったら、何十枚にも及ぶプリントを渡された。その瞬間、眉間に溝が生じたのは……言うまでもない。
 溜め息を吐きながら、家に持ち帰ってやろうと受け取ろうと手を伸ばすと、目の前の教師が笑顔を浮かべながら、その手を引っ込めた。「どういうつもりだ」と言わんばかりに、眉間に皺を寄せたまま、教師を窺えば、笑顔のまま、「この課題が終わるまで、帰らないように」と告げられた。
 そして、課題を渡された経緯をプロンプトに説明して――今に、至る。

「ノクトもバカだな〜ルナフレーナ様は、ノクトがくれるもんなら、何でも喜んでくれると思うよ?」
「んなのは、分かってるんだよ」
「あ、分かっているんだ……」
「いつも、訊いてんだよ。ルーナは何が欲しいか?って。それに対して、ルーナは『ノクティス様から頂けるものなら何でも嬉しいです』って返してくるからな」

 昨夜、ルーナの元に遣ったアンブラは、恐らく、一言一句違わないステッカーが貼られた手帳を数日後に、オレの元に届けるのだろう。
 クリスマス前のルーナとのやり取りは、ここまでが恒例となっている。この先が、毎年、異なるのだ。この先を去年より、工夫を凝らさなければならない。そして、今の悩みの種となっている。だが、こういったことで悩めるのは、幸せであることを証明しているのは百も承知だ。

「ちゃんと根拠があるみたいで、安心したよ。ノクトが独りで、勝手に言っているのかと思ったからさ」
「プロンプト……お前の目に、オレはそんな自信家に映っているのか」
「あれ、バレた?」

 依然として、プロンプトが茶目っ気たっぷりに舌を出しながら笑みを浮かべている(性別を考えろと思わず、言いそうになったのは秘密である)ので、鋭い目つきをお見舞いしてやった。

「でもさぁ、本当に、そんなに悩まなくてもいいと思うよー? ノクトがルナフレーナ様にあげたいものをあげるべきだとオレは思うけどね」

 口調はいつも通りだが、いつになく真っ直ぐな瞳を向けてくる。

「世間一般的な女性を喜ばせたい訳じゃないでしょ? ノクトは誰を喜ばせたいの?」
「ルーナ」
「即答!? って、もう、それがさ……答えでしょ」
「……んなの、頭では分かってるんだよ……けど、」
「けど?」

 無垢を匂わす蒼が覗き込んでくる。その表情(かお)には、『けど、何なの?』と書かれている。
 とうの昔から止まっていた手に握られていたペンを机上に置いて、「あー……」と声にならない声を上げながら、視線を左右に彷徨わせる。先程までペンを持っていた指で、大して痒くもないのに、耳の裏を掻いてしまう。
 自身の中に当然にあった思いを改めて口にするとなると、どうも……羞恥心に駆られてしまう。元から、自分の感情を素直に表現できない性質だ。例え、それが親友の前だとしても、どうしたって、憚れてしまう。
 プロンプトもそれが分かっている筈だ。僅かな期待を込めて、ちらりと視線を向けてみたが――相も変わらず、その瞳は、オレを映していた。その姿を目の当たりにして、盛大に息を吐く。
 こうなったら最後、自身が告げるまで、プロンプトはその瞳を仔犬のように煌めかせながら待つことになるだろう。プロンプトが折れることはない。ならば――オレが折れるしかない。
 ノクティスは半ば自棄になりながら、渋々、それを言葉にした。

「あげるからには……今まで一番、ルーナを喜ばせたいし、ルーナが欲しいものをあげたい、だろ……」

 折角、今年は初めて自分の金で、ルーナにプレゼントをあげられる訳だし。
 ぽつりぽつりとぶっきらぼうに呟かれた言葉に、プロンプトがぱちぱちと瞬きを繰り返す。そして、その?がじわじわと赤く染まっていった。周りに自分達以外、誰も居ないというのにも関わらず、先ほどの自身のように視線を彷徨わせる。

「いやー……なんていうのかな、うん、本当……ごちそうさまです」

 緩む口元を手で軽く押さえながら、言ってのけるプロンプトに対して、羞恥のあまり、思わず立ち上がる。

「お前が言わせたんだろうが!!」
「いやだって、聞いてるこっちが恥ずかしくなるようなセリフをノクトが言ってくるとは思わなかったんだもん!!」
「はぁ?! オレの所為だって言うのかよ!?」
「どう考えても、ノクトでしょ!?」
「だーもう、どっちでもいい! どっちでもいいから、そのにやけ顏を一刻も早くやめろ!!」

 ――結局、プロンプトの「オレが悪かったって」の一言で、言い争いに終止符が打たれた。しかし、日の入りを過ぎても、机上には依然として、課題が残されたままだった。


 ◇◇◇


 しんしんと雪が降っているため、暖房がついた部屋の中にいても窓際に行けば、ひんやりとした空気が身を襲う。陽はとうに西の地平線の下へと潜り込んでいて、窓ガラスには、わたしの姿がくっきりと映し出されていた。窓ガラスの向こう側は暗闇に包まれているからか、身につけてある白のノースリーブのワンピースがよく映えていた。
 窓際に座りながら、傍らにいるプライナの頭を撫でた瞬間、キィという音が響く。それはバルコニーへと続くドアが開いた音だった。プライナとアンブラ……それと、ゲンティアナとわたし以外、出入りしないドアだから、常に鍵をかけていない。いつでも、自由に出入りができるようになっている。
 お兄様からは、「物騒だから施錠しろ」と言われ続けているけれど、日に日に気温が下がっていく、この季節。少しでも早くアンブラが暖かい部屋に入れるようにするためも、わたしはお兄様からの言葉を、素直に聞き入れるわけにはいかなかった。
 視線をそのドアへと送れば、今か今かと待ち望んでいた彼――アンブラがわたしの視界に映る。急いで来てくれたからか、アンブラの息は切れていた。

「お疲れ様、アンブラ」

 いつもは2、3週間に一度の頻度で、ノクティス様との手帳のやり取りをしているけれど、この時期だけは毎日ようにやり取りをしている。急ぐ必要が心得ているのか、それとも毎年のことだから、もう慣習化してしまって体に身についてしまっているのか。どちらにしろ、アンブラはいつも、この時期になると、ノクティス様とわたし宛に、急いで手帳を届けてくれるから、その気持ちがとても嬉しかった。
 アンブラに近寄って、額に感謝の気持ちを込めて、そっと唇を落とす。すると、その顔をわたしの頬にすり寄せてきた。可愛らしいアンブラの姿に笑みを浮かべながら、腰を下ろす。そして、背中へと手を伸ばして手帳を受け取った。
 ……ノクティス様は、どんな返事をしてくれたのでしょうか。
 疑問が浮かんでも、予想はついている。その理由は、ここ数年、毎年、同じステッカーを貼りあっているからだ。
 手帳をぱらぱらとめくると、真新しいステッカーが視界に映る。最近、貼られたものだけど、そのステッカーに記されている言葉は、馴染み深いものだった。

『ルーナがくれるもんなら、何でも。ルーナは?』

 予想通りの言葉が届いて、思わず口から笑みをこぼし、目を細めた。
 毎年、変わらないやり取り。でも、今年も去年と同じやり取りができて、限りない喜びで満たされる。他の人が聞いたら、変わらないやり取りをして楽しいの?嬉しいの?と疑問に思われるかもしれない。
 それでも、わたしは。
 レギス国王の手を離してから、8年が経っている今年も、ノクティス様との繋がりを感じることができるから。離れてから長い月日が経っても、ここテネブラエで過ごした時のように、ノクティス様と変わらない関係のままでいられるから。
 ――まぶたの裏に、幸福が浮かび上がる。
 ぎゅっと手帳を強く抱きしめた後、閉じていたまぶたを開けて、新しいステッカーを貼る。

『ノクティス様から頂けるものなら、何でも嬉しいです』

 ノクティス様から頂けるものであれば、本当に嬉しいのです。プレゼントも嬉しいのですが、そのお気持ちが何よりも嬉しいからです。
 会って直接伝えたい言葉の数々を、たった一つのステッカーに込める。祈るように、そのページをなぞってから、手帳をアンブラの背中へと仕舞う。

「お願いね、アンブラ」

 アンブラは手帳を受け取るや否や、休むことなく、開けっ放しのドアへと、その身を飛び込ませていった。アンブラが遠く彼方へと去っていったのを確認すると、やおら立ち上がる。

「さて……今年は、何をノクティス様に贈りましょうか」

 ドアを閉めながら、一人呟く。
 去年はマフラー、一昨年は毛糸の帽子と、毎年異なるプレゼントを贈っている分、そろそろレパートリーが尽きかけている。でも、何を渡そうか考えている時間は、嫌いじゃない。寧ろ、ノクティス様のことを考える時間でもあるから、喜びで満たされる。

「ルシスの冬は去年よりずっと寒いみたいですし、今年も防寒具をあげたら、喜ばれるでしょうか?」

 瞳の奥で、ノクティス様の姿を映しながらプライナに尋ねる。プライナは何も答えなかったけれど、その瞳は、いつになく丸みを帯びていた気がした。


 ◇◇◇


 あの後、最終下校時刻を告げるチャイムが鳴り、終わった所までの課題を提出し、その残りを自宅で終わらせることで、なんとか事なきを得た。あのまま真っ暗となった教室で課題と向き合うために居残りなんて、たまったもんじゃない。
 帰路を辿るその足で、課題のことをとうに蚊帳の外へと放り投げたノクティスは、早速ルナフレーナへの贈り物を買いに行こうと、プロンプトを誘った。
 しかし。

『やっぱり、オレが勧めたものをルナフレーナ様にあげるのは……違うと思うんだよね。それって、オレからのプレゼントにもなり得ると思うし』
『……』
『だから、ノクト。自分一人で選びな』

 と、言われてしまったので(プロンプトの言い分が正論すぎて、何も言い返せなかった)、ノクティスは一人で街へと赴いていた。
 カラフルな電球が街中を彩り、あちこちから聞き慣れたクリスマスソングが流れている。この時期によく見かけるポインセチアの花が店先に飾られており、街中は文字通りクリスマス一色となっていた。
 乾燥している空気の中、ひとたび風が吹けば、身体に震えが生じる。片方の手をポケットに突っ込みながら、もう片方の手で首元を温めているマフラーを口元まで覆うよう、引っ張り上げる。
 今、自分の顔は煌びやかな街中とは対照的になっているだろう。いざ、街へ来てみても、未だにルーナに贈るプレゼントが決まっていないからだ。
 一体……何を渡したら、いいのだろうか。
 装飾品を贈るのが世の男の常套らしいが、昨日、インターネットで調べて出てきた装飾品は、どれもピンと来なかった。
 コレといった目的を持たず、ただルーナに似合うものを求めながら、ぶらぶら歩いていると、ふと視界に、とある百貨店前のショーウインドウが映る。
 そのショーウインドウは、女性向けの装飾品やら化粧品やらを飾っており、全体的に薄桃色に統一されていた。いかにも、女性が好み様相となっている。
 ルーナも、こういったものをあげたら、喜ぶんかな。
 足を止め、ショーウインドウへと近付く。よく見てみると、何に使うのかは分からないが――恐らく化粧品なのだろう――沢山のものが、白い丸テーブルの上に置かれていた。
 端から順々に見ていくと、ある『もの』のところで、その目の動きが止まる。周りにある化粧品が霞んでしまうくらい、瞳はそれに焦点を合わせた。思わず食い入るように見てしまう。それと同時にショーウインドウには、目が大きく見開いている自分の瞳が反射して映し出されていた。
 今まで、どれに対しても自身の直感が働いたことがなかったのに、第六感が『これ』だと告げている。碌に店を回っていないが、『これ』をあげたら、ルーナは喜ぶだろうと謎の自信すら湧いて出てきている。
 それに。
 『これ』を身につけているルーナは、多分……いや、絶対、綺麗に違いない。身につけている姿を想像するだけで、動機が走る。『これ』以上に、ルーナに似合うものはないだろう。
 しかも、『これ』は身に着ける場所柄、頻繁に視界に映るものだ。身に着けたら――視界に映る度に、オレのことを思い出してくれるかもしれない。オレがそばに居ると、思ってくれるかもしれない。
 そんな邪な思いを携えて、今までの不安や懸念は、どこに行ったのか。沈鬱としていた表情から一変して、溢れ出る自信に背中を押されるがまま、女性だらけへの店内へと足を踏み入れた。だが、入って数十秒後に、あまりにも店内が女性だらけだったので、ノクティスが居づらそうに視線を彷徨わせて、早急に買い物を済ませたのは言うまでもなかった。


 ◇◇◇


 たった2週間ちょっとしかない冬休みが終わり、今日から新学期が始まる。毎日のように夜遅くまで起きて、昼過ぎまで寝ているといった堕落を極めた日々を過ごしていた。
 そのため、本日朝7時に起きるのはたいへん苦痛でしかなく、始業式中も立ったまま眠りそうになった。それは前に立っていたノクトも同様だった。
 年末年始ということもあって、実家――もとい王宮に帰って少しは規則正しい生活を送っていたのかもしれないけど、身についた生活習慣が矯正される訳がなく。実家を後にしてからは、オレ同様に自堕落な毎日を過ごしていたのだろう。
 イグニスがこんなノクトを見たら、絶対、小言を言うんだろうな。イグニスの話を耳半分にして、ノクトが「はいはいはいはい」と言っている姿が容易に想像つく。
 通算何度目になるか分からない欠伸をしたのと同時に、担任が下校前のSHRの終わりを告げた。始業式ということもあって、学校は午前中だけだ。外はまだ明るい。いつもだったら、昼食をインソムニアでチェーン展開しているファーストフードで済ませ、ゲームセンターに足を運んでいただろう。
 しかし、今日はさすがに、ノクトと寄り道しないで直帰しよう。そして、ベッドへとダイブしよう。まぶたが今までで一番と言っても過言ではないほど、重く感じているからだ。あまりにも眠すぎて、頭痛さえ感じ始めている。
 帰る前に、その旨をノクトに伝えようと、ノクトの席へと赴く。すると、ノクトの隣に座る女子の声がやけに耳に届いた。

「バレなくて本当に良かったー安心したよー」
「始業式だから先生も大目に見てくれたんじゃない? 明日はちゃんと落としてくるんだよ」
「分かってるよーバレたら、めんどくさい反省文だしね」

 バレる? 落とす?
 意味深な言葉が聞こえてきて、視線をその子たちに向ける。ノクトの隣に座る女子がセーターを手の甲まで伸ばし、やけに爪を隠そうとしているのが窺えた。
 もしかして。注意深く視線を注ぐと、予想通り……爪が桃色ではなく鮮やかな水色で彩られていた。
 なるほど、とプロンプトは納得する。
 自分達が通う学校は、ノクトという一国の王子が通う高校だ。それなりに校則は厳しい。化粧はもちろん、パーマ・ピアス等禁止されている。爪においても、それは例外ではない。あの子はきっと、冬休み中に塗ったままのマニキュアを落とさずに、今日を迎えてしまったのだろう。
 見つからなくて良かったね、と他人事ながら胸を撫で下ろしていると、突如、信じられない光景が目に入った。

「え!? ノクト!?」

 驚きのあまり、思わず内心に留まらず、声に出してしまっていた。

「王子……? えっと……どうしたの……?」

 声を上げた女子の瞳は、オレと同様に大きく見開かれていた。
 何故なら――徐ろに、ノクトが爪を青く塗られた女子の手を掴み、じっと視線を爪へと送っているからだ。オレ以外に対して社交的ではない――女子はもちろん、男子も含まれる――ノクトが突然、女子の手を握ったりするなんて。一体、どうしたのだろうか。
 正に、開いた口が塞がらない状況を身を以て体験していると、オレやその女子をはじめとして、近くにいる数人の級友たちから視線を奪っている当の本人が、その口を開かせた。

「なぁ……これって、××の9番?」
「そう、だけど……?」
「ふぅん……付けると、こんな感じなんだな」

 まじまじと真剣な表情でノクトがその爪を見つめていたかと思いきや、次の瞬間には、僅かに相好を崩していた。そして、今までに一度も聞いたことのない、優しい声色で言葉を紡いだ。

「やっぱり、いいな。この色」

 その言葉を聞いて。表情を見て。
 直ぐに、ノクトが誰のことを考えているのか、その爪ごしに誰を見ているのか、ピンときた。
 ――ノクトも、なかなかセンスあるプレゼントあげるじゃん。
 あれだけ悩んでいた過程を知っている分、思わず、口角を上げてしまう。その高さを保ったまま、ノクトへと近づく。

「ノクトー! いつまで手ぇ、握ってんの! ほら、帰るよ!」
「手……? あっ……わりぃ!」
「う、ううん……大丈夫」

 自分が今の今まで、何をしでかしていたのか、誰の手を握っていたのか、気づいていなかったなんて……どれだけ、他の女子に、否、女性に興味がないのだろう。オレには、とてもじゃないが計り知れない(オレだったら、女子の手を握るなんて、意識しすぎてしまって、手汗が酷いことになっているだろう)。
 突然のノクトの行動に、驚き半分、面映さ半分といったところか、ノクトの突拍子もない行動に巻き込まれた女子の頬は赤く染まっていた。だから、ここぞとばかりに親友に対するフォローをする。

「もう、ノクトがごめんねー? この人、一つのことに、とことん夢中になって周りが見えなくなっちゃうタイプだからさ」
「おい、プロンプト」
「え? オレ、何か間違ったことを言ってる?」

 依然として、口角を上げたまま尋ねる。
 直接的に名前は出されてないが、『一つ』が何のことを――誰のことを、指しているかは、お互いに分かっていた。
 だから、ノクトも。

「間違っちゃいねーけどよ……」

 否定することなく、同意する。
 今回の一件で分かったことがある。それは、『一つ』こと、ルナフレーナ様に関したときだけ、ノクトはいつもよりちょっとだけ素直になることだ。照れくさいセリフも、たどたどしくはあるが、ちゃんと紡いでくれる。
 きっと、こういったノクトの性格を他の人――昔からの馴染みであるイグニスやグラディオですら、引き出せないだろう。ルナフレーナ様だけが、引き出せるのだろう。それほどまでに、ノクトにとって、ルナフレーナ様はかけがえのない人なのだろう。そして、ルナフレーナ様にとっても、ノクトは――。
 二人の関係性を改めて窺えて、穏やかな感情で満たされていると、ノクトの口から、その感情を打ち砕く一言が放たれた。

「いやでも、お前にフォローされるのは、何か気にくわねぇな」
「ちょっと、それ、理不尽すぎじゃない!?」

 軽口を言い合いながら、周りにいた人たちに軽く別れの挨拶を交わし、教室を後にする。暖房が効いてない、冷え切った廊下を、軽口から変わって、たわいもない話しながら歩いていく。
 ふと視線を、ノクトの手へと遣れば、見慣れない真新しい手袋が、その手を包み込んでいることに気付いた。毛糸で編みこまれた黒い手袋。それが誰から贈られたものなのか――ノクトに訊くのは、野暮でしかないだろう。

「その手袋、似合ってんじゃん」

 と言えば、いつものすまし顔を浮かべて、ノクトは、こう言ってのけた。

「――当然」


material from 0501 | design from drew | 2017.01.09 minus one