あなたを追う

 ふと、視界が開けたと思ったら、見知った景色が透き通るような空色を持つルナフレーナの瞳に映る。
 テネブラエが一望できて、太陽の光が惜しみなく注ぐ大きな窓ガラスと真っ白なカーテン。白く縁取られ、対になっている水色のソファ。幼い頃、ノクティス様と腰を掛けて、よくお話した天蓋付きのベッド。そして、窓際には、テネブラエを象徴するジールの花が飾られている。
 間違いなく、今、いる場所は――24年の月日を過ごしたテネブラエの宮殿の自室だった。
 どうして、わたしが……ここにいるのでしょう。
 脳裏に疑問が思い浮かんでも、自分はとうに命が尽きた身。実体を伴っていない、わたしは何が起きてもおかしくない状況にある。きっと、何かの拍子で、テネブラエまで飛ばされてしまったのでしょうと、納得する。
 久々に見る自室の様子に、感慨に耽る。テネブラエで過ごした日々が、走馬灯のように瞳の奥で映し出される。特に、ここ――わたしの部屋は幼い頃のノクティス様と多くの時間を過ごした場所であるから、その頃の思い出が次々と浮かび上がる。
 しかし、直ぐに異変に気付いた。優しい思い出に浸りながら、直ぐ近くにあったジールの花びらに触れようとした瞬間。実体を持ち合わせていないのにも関わらず、『触れる』ことができたからだ。思わず、大きく目を見開く。
 この姿となってから、有機物・無機物関係なく、現実に存在しているものを、この手でしっかりと触れられた試しはない。わたし自身が透けてしまっているからか、触れようとしても、指がそのものを通り抜けてしまう。今まで触れることができたのは――こちらの世界に来てしまったノクティス様とこちらの世界にあるものだけ。
 テネブラエのこの部屋にあるものは、実際に、現実の世界に存在しているものであるはずなのに……どういうこと、なのでしょうか。一体、何が起きているのでしょうか。
 あらゆる可能性を脳裏に浮かばせると、ガチャリとドアが開く音が閑静な部屋に響いた。弾かれたように、音が鳴った方へ振り向くと――車椅子に乗られて、じっとこちらを見つめている幼いノクティス様の姿が、視界に映し出された。
 反射的に、ぱちぱちとまばたきを繰り返す。驚いているのはわたしだけではなく、幼齢のノクティス様も目を見張らせていた。

「お姉さん……誰……? どうして、ルーナの部屋にいるの……?」

 ドアを開けたら見知らぬ人がいたからか、ノクティス様の怯えるような声色の中に警戒心が垣間見える。ドアを開けたまま、車椅子を動かして、部屋の中には入ろうとしない。
 もしかして。頭に、ある仮説が浮かぶ。
 きょろきょろと自室を注意深く観察する。よく見ると、テネブラエを離れる前に使っていた部屋とは、置いてあるものが少し異なっている。わたしが昔……それこそ、ノクティス様とお会いした時に、部屋の奥で飾っていたハハコグサの花が、花瓶に活けられていた。ハハコグサは、ノクティス様とお会いしていた、この時期にしか飾っていない。
 幼いノクティス様と部屋の様子、通り抜けることなく、ものに触れられることから導かれる結論は、一つだった。
 ――ここは、過去の世界……?
 アンブラがそういった能力を持ち合わせているから、今更、過去を訪れたくらいでは動揺しないけれど。まさか、この身で――過去の容姿になる訳ではなく、24歳の姿のまま実体を伴った状態――過去に来たとなると、話は違う。
 こんなことが、ありえるなんて。わたしは……夢でも見ているのでしょうか?
 動揺から、心臓が大きく音を鳴らす。乾燥しているわけではないのに、意味もなくまばたきを繰り返してしまう。

「お姉さん……?」

 ノクティス様の声を聞いて、ハッと我に帰る。今は、動揺に意識を奪われている場合じゃない。今、意識を向けなくてはいけないのは、目の前にいる、幼い頃のノクティス様だ。
 狼狽えたところで、何も始まらない。今、自分がすべきことは……この場をやり過ごすこと。ただ一つだ。覚悟を決める。
 大きく息を吸い、呼吸を整える。そして、まるで仔犬のように、こちらを窺っているノクティス様の元へ、 ゆっくりとその足を進める。履いているヒールの音が鳴らないよう、細心の注意を払いながら。
 ノクティス様の目と鼻の先まで来ると、膝を地面につけて、目線を合わせる。純白のワンピースが汚れることに、少しも躊躇いはなかった。

「驚かせて申し訳ありません、ノクティス様。わたしは…………アコルドから使いとしてきた者です」

 素性を知られてはいけないから、暫し逡巡し、偽って自己紹介をする。しかし、告げてから、使いが身につけるような服を纏っていないことに気づき、今の格好では無理があったかもしれないと後悔する。
 果たして、ノクティス様は……納得してくれるでしょうか。
 落ち着きを取り戻していた心臓が、忙しなく動き始める。呼吸を止めて、ノクティス様の返事を待つ。
 その返事は、幾ばくもしない内に返ってきた。

「ふぅん。そうなんだ。あっ、ねぇ、ルーナが戻ってくるまでさ、僕の話し相手になってよ」

 わたしに対しての不信感は、もう少しも残されていないのでしょうか。
 あまりにもあっけらかんとした口調で、話し相手になることを所望されたので、目を白黒とさせてしまう。だけど、直ぐに、その目元は穏やかなものへと変わった。

「わたしで良ければ、もちろんです。ノクティス様」



 今の身分は一応、使い、つまりは、ノクティス様より身分がうんと下なので、幼い頃のように、二人してベッドに腰をかけてお話することは叶わない。だから、立ったままノクティス様とお話しようと思っていたのだけれど――ノクティス様から「見上げるの、疲れちゃうから、すわって話そうよ」と言われたので、そのお言葉に甘え、今は白く縁取られたソファに腰を下ろして、ノクティス様とお話をする。
 こうして、また、テネブラエでノクティス様とお話できるなんて。本当に、願ったりかなったりだ。わたしにとって、この頃の思い出はかけがえのないものであって、できることなら、追体験をしたいと思っていたからこそ――。
 表情を綻ばせながら、ノクティス様のお話に相槌を打つ。
 話のほとんどがノクティス様のお父様――レギス国王にまつわる話ばかりで、ノクティス様からレギス様に対する、あふれんばかりの憧憬と尊敬の念が、とてもよく伝わってくる。ノクティス様がレギス様に、言葉では表すことができない程の敬愛の想いを抱いているのは、以前から自明の理だったけれど、こうして幼い頃のノクティス様とお話していると、その想いは幼齢の時から変わっていないことが窺える。

「そうだ、ねぇ。突然、話が変わるけどさ、」
「何でしょうか?」

 緩やかに首を傾けると、ノクティス様がまじまじとわたしの顔を見つめる。直ぐに、ノクティス様はその先の言葉を紡いだ。

「お姉さんって、ルーナに似ているね」

 びくりと考えるよりも早く、身体が反応してしまう。まさか、『今の』わたしの姿で、その名前が出されるとは思っていなかったからだ。
 今。ここで、素性を明かすわけにはいかない。下手に素性を明かして、過去を変えてしまったらタイムパラドックスが起きてしまう可能性が無きにしも非ずだ。タイムパラドックスが起きた結果、良い方向に変わればいいけれど、確実にそうなるとは限らないから、未来に変化をもたらすような行動は、何としてでも避けないといけない。
 動揺が前に出ないよう、なんとか平静を装う。

「……そんなに、似ていらっしゃるのですか?」
「うん。ルーナが成長したら、お姉さんみたいになるんだろうなって思うくらい、似てるよ」

 ノクティス様が核心をつくお言葉を紡がれるので、内心で冷や汗が止まらない。しかし、ここで狼狽してはいけない。

「そうなのですね。そこまで似ているのであれば、わたしのことをルーナと、呼んでくださって構わないですよ」

 冗談を言って、やり過ごそうと試みる。
 ノクティス様はわたしの話を聞くと、予想に反して(予想では、冗談に対して、笑みを浮かべると思っていた)、眉間にしわを寄せる。そして、少しだけ思考を張り巡らせた後、その口を開いた。

「んー…………でも、僕がルーナって呼びたい人は『ルーナ』だけだから……『ルーナ』以外に、ルーナって呼びたくないかな。だから、お姉さんのことは、お姉さんって呼ぶよ」

 ――そのお言葉を聞いて、わたしが嬉しさのあまり、目頭が熱く感じたのは、言うまでもありません。
 幼少のノクティス様がわたしを――幼い頃のわたしを(こう言ってはなんだか図々しく思われてしまいそうですが)特別に思っていてくれたことが窺えて、嬉しくないはずがありません。
 感謝の気持ちを表そうにも、直接は伝えられないので、心の中でそっと、「ありがとうございます、ノクティス様」と呟いた。

「あ、でも、やっぱり名前で呼びたいな……ねぇ、今更だけど、お姉さんの名前は何ていうの?」
「わたしの、名前ですか?」
「うん」
「…………わたしの名前は、」

 そこまでは考えておらず、どうしましょうとノクティス様から視線を外した瞬間。コンコンと自室のドアがノックされる音が響く。息を詰まらせながら、目をドアへと向ける。

「ノクティス様? いらっしゃいますか?」

 その、声の持ち主は――。

「ルーナだ!」

 ノクティス様の表情に、ぱぁと明るい花が咲く。自分で車椅子を動かしながら、ドアへと向かうのと同時に、そのドアがゆっくりと開かれる。
 興味がわたしから移られたと、ほっと胸をなでおろすと、自分自身の姿が透けていることに気づく。どうやら……夢のような至福の時間は、ここまでのようだ。
 恐らく、過去のわたしと今のわたしが鉢合わせてはいけないから、強制的に元の世界に戻らされるのでしょう。
 扉が開いて、幼い頃のわたしが姿を現す。彼女と一瞬だけ、目があったような気がしたけれど、次の瞬間には、過去の世界に別れを告げていた。
 だから。

「この人がルーナだよ。お姉さんにそっくりでしょ?」

 と振り向きながら言ったノクティス様の言葉が、今のわたしに届くことはなかった。


 ◇◇◇


 例えるならば、ふわりと空から地面に足をつけるような感覚だった。とんと、意識と身体がリンクして、元の世界に戻って来たことが分かる。
 閉じていた瞼を開ければ、見慣れた景色が映る。何処かから鐘の音が鳴り続け、青いジールの花が降り続けている。目の前には真っ白な花が敷き詰められ、赤い絨毯が王座前から入口まで、ずっと続いている。白いベールも掛かっていて、まるで、結婚式場のように施されたインソムニアの王宮を見て、本来の時間軸に戻って来たことを実感する。

「起きたか」
「ノクティス様……?」

 隣で玉座に座る今のノクティス様のお声が耳に届いて、やおら顔を上げて声がする方を向く。どうやら、玉座の肘掛けに腕を枕にして頭を預けたまま、過去の世界に飛んでしまったらしい。

「ずっと返事がないから、心配した」
「ノクティス様……ご心配おかけして、申し訳ありません」
「いや、謝らなくていい。ちゃんと、目、覚ましてくれたからな」

 手袋を外され、直にノクティス様の指が頬に触れられる。指の腹ではなくて、いつぞやの時のように、指の外側でそっと触れてきたので、こそばゆく感じられる。
 目尻を下げながら、慈しむような笑みを浮かべて、わたしを優しい眼差しで見つめていたノクティス様。しかし、突然にして、その表情が一変する。穏やかな瞳が一転して、大きく見開かれる。それは幼いノクティス様が今のわたしと初めてお会いした時の表情とうり二つで、既視感を覚えた。

「どうか、されましたか?」
「……なんで、今まで気付かなかったんだろうな。今になって……漸く気づいた」

 ノクティス様は何を仰っているのでしょうか。
 ぱちぱちとまばたきを繰り返して、じっとノクティス様の表情を窺う。視線の先にいるノクティス様は目を元どおりの大きさに戻して、先ほどまで浮かべていた穏やかな表情に戻る。そして、ぽつりぽつりと呟き始めた。

「あの時、いつものように部屋に行ったら、見知らぬ人がいて……その人と話しながら、その姿をずっと見てて……思ったんだよ」
「……」
「成長したら、このアコルドから来た使いの人のように――綺麗な人になるんかなって」
「……っ!!」

 ノクティス様の言葉を聞いて、今度はわたしが目を見開く番だった。どくどくと心臓が大きく鼓動し始める。
 まさか、覚えていらっしゃったなんて。もう記憶の奥底に眠ってしまって、覚えていらっしゃらないと思っていたのに。
 ノクティス様が、ふ、と笑みを浮かべて尋ねる。

「なぁ……12年、いや、22年越しに訊くけど……名前は、なんて言うんだ?」

 時を超えて、ノクティス様とやりとりできることに。ノクティス様が、あの時のことを記憶の引き出しに留めてくれていたことに。わたしにはもったいない言葉を紡いでくれたことに。
 周りの景色が一変するほどの嬉しさを覚えて。
 瞳に水の膜を張りながら、震える声で名を告げた。

「ルナフレーナ……ルナフレーナ・ルシス・チュラムと、申します」
 


material from 0501 | design from drew | 2017.01.13 minus one