宵闇の片隅で

 しんと静まり返っている。まるで、空気が辺りの音を全て、奪い取ってしまったのではないかと思うくらい、二人は静寂に包まれていた。
 誰もいない闇の中。その闇を掻き分けるように、人気のない森を進んでいく。前を進んで、道を切り開くノクティスの後を、ルナフレーナが追う。
 空を見上げれば、星々が自分の存在を主張するかのように、きらきらと瞬いていた。息を呑むような自然の美しさに、思わず、ほうと息を吐いてしまいそうになる。しかし、それは星に対してだけではなかった。自身の後ろにいる人物にも……向けられる。
 視線を下ろして、傍らにいる人物を瞳に映せば、首を僅かに傾けて尋ねてきた。

「どうかしましたか?」
「……いや、何でもない」

 ぶっきらぼうに返せば、ルーナは何も言わずに微笑む。その表情を見て、思わず心臓が騒ついた。
 本当に――見る度に、綺麗だと思う。
 まるで猫の毛のようにふわふわで、見ていると思わず触りたくなってしまうようなゴールドの髪に、アーモンド型のぱっちりとした瞳から覗く、煌めくサファイアの瞳。真っ直ぐ高く伸びた鼻に、桃色に彩られた薄い唇。マシュマロを思わせるような真っ白な頬。
 立場上、高貴な身分のものから一般人まで、様々な人物と会ってきたが、ここまで美しい人は、後にも先にもいない。ルーナだけが、自分に美しいという感情をもたらしてくれる。
 しかも、ルーナが綺麗なのは外面だけではない。内面も、目があてられないくらい……綺麗だ。
 確固たる意志と自分の使命を全うするひたむきさを持ち合わせている。その一方で、感受性が豊かで、誰に対しても、慈愛に満ち溢れている。そこにいるだけで、心に平穏をもたらしてくれる存在だ。
 内側も外側も洗練され、他を寄せ付けない美しさを身に潜ませている。まるで、これだけ星々が輝いているのに、群を抜いて煌めいて、つい目で追ってしまう、月のようだ。名の通り――否、名以上のものを持ち合わせている人物だ。
 本当に、オレには……勿体なさすぎる女性だ。
 そう言う代わりに、ノクティスは目を細めて、再び歩き始めた。



 ある程度進むと、月下美人の花が所々咲いている、開けた場所に出る。すると、湖が現れ、その表面にはくっきりと大きな丸い月が映し出されていた。水面が波打つ度、その形は直ぐに形を変えるが、輝かしさだけは変わらない。
 すれ違う人々が「森の中に、水面に夜空が反射して、見た者は思わず、呼吸をするのも忘れてしまうほどの美しさにのまれてしまう――そんな湖があるらしい」と言っているのを聞いて、それならば実際に訪ねてみようと二人で話し合ったのは、つい数時間前のことだ。夜が更けるのを待ってから、二人で、その場所を目指していた。自分たち以外は、誰もいない、暗い帳の中を、二人だけで。
 実際に訪れてみて、なるほど、と言葉を紡ぐ。確かに、眼前に広がっている景色は、今まで見た中で――釣りを嗜好するため、過去に、湖を始めとして、池や海と様々な場所に訪れていた――一番と言っても過言ではないほど、美しかった。月だけではなく星も反射しており、辺り一面がきらきらと輝いている。湖を囲うように植えられている木々も相まって、ここだけ、先ほどまで自分たちがいた場所とは異を唱えていた。波打つ音しか聞こえないこの場所は、いつまでも、それこそ、飽きるまで佇みたい衝動を寄越す。
 それは隣にいるルーナも同じようで。

「これは……想像以上ですね、ノクティス様」

 隣で、息を呑む音が聞こえた。視線をそちらに遣れば、今、自分の見ている景色が信じられないのか、ルーナはまじまじと目の前の景色を、そのぱっちりとした瞳に映している。そして、感嘆の息をもらさないようにする為か、片手を唇に添えていた。
 じっと、そんなルーナを見つめていると、視線に気づいたのか、二人の目が合う。

「ノクティス様、連れて来てくださって、ありがとうございます」
「礼を言うのは、オレの方だ。ルーナがすれ違った奴の話を聞いてくれていなかったら、今ここにいないしな」
「なら……どういたしまして、ですね」

 唇に手を添えたまま、くすりと笑みをこぼす。
 ルーナの笑みを見る度、何かしらのものに収めておきたい衝動に駆られる。いつまでも、この笑みを見ておきたいからだ。
 しかし、ここ――オレとルーナがいる世界――には、プロンプトが持っているようなカメラはない(そもそも触れることができない)。よって、残念ながら、ルーナのこの花が綻ぶような笑みを残すことはできない。だからこそ、ノクトは心にやきつけようと、まるで、シャッターのように、まばたきを繰り返した。
 だが、二人の間を穏やかな空気が包んだのもつかの間。静寂の中で、突如、「クシュンッ」という音が落ちる。それを耳にした瞬間、言うよりも先に、ルーナが反応するよりも先に、自らの上着を脱いで、ルーナのほぼむき出している肩を覆うように、目の前から、そっと掛ける。

「ノクティス様!? そんな……わたしは、大丈夫ですから、お気になさらないでください」

 折角、掛けた上着に、ルーナが手をかけようとするので、手を前に出して、それを制止する。

「くしゃみしてんだから、大丈夫じゃねぇだろ。それに、オレは全然寒くねぇから」
「でも……、」
「オレが、嫌なんだよ。ルーナが寒がっている姿を見るのが」
「そう、なんですか?」
「ああ。だから、それ。羽織っててくれ」
「…………わかりました……ノクティス様のお言葉に、甘えさせて頂きますね」

 不承不承といった感じが否めないが、ルーナは納得し、きゅっと肩に掛けられた上着の襟部分を掴んだ。納得がいっていない表情を浮かべていたが、春の陽射しが雪を溶かすかのように、表情が緩んでいく。そして、口元には、先ほどまでのような微笑が現れていた。

「とても、あたたかいです……ありがとうございます、ノクティス様」
「そりゃ良かった……って、気づいてやれなくてごめんな」

 春ゆえに、日中と夜間の気温差が激しい。日中は上着を着ずして平気でも、夜はそうもいかない。ルーナはいつも着ているようなノースリーブのワンピースではなく、ちゃんと袖がある外出用の衣服を身にまとっているが、それでも夜は寒い。
 ルーナがくしゃみをする前に気づかなかったのは、自分の落ち度であり、そんな気を遣えない自分に対して不甲斐なさを覚える。しかし一方で、これ以上、ルーナが寒さに悩まされることがなくなって、ほっとひと安心している自分もいた。

「いいえ、上着をお貸ししてくださるだけでも、嬉しいので」
「そうか?」

 満面の笑みで、「はい」と言いながら、こくりとルーナが頷いた。つられて、オレも笑みをこぼす。

「なぁ。もっと、近くで見てみないか」
「そうですね。近くに行ったら、水面がもっとキラキラしてそうですし、わたし、行ってみたいです」
「うっし。じゃあ、行くか」

 先へ進もうとするが、湖畔の近くに行くには自然にできた階段(のようなもの)がある。人工的に作られたものではないため、段から足を踏み外してしまう可能性が無きにしも非ずだ。
 そう思い、足を進ませて、一段下がった場所へ赴くと、後ろを振り返る。そして、その白魚の手に、自分の手を伸ばした。

「ノクティス様……?」
「ぬかるんでるし、滑るとあぶねぇから」
「! ……ありがとうございます」

 ルーナの性格上、断られるかと思ったが、どうやら今回は素直に言葉を受け取ってくれたようだ。手の上に、オレよりもひと回り小さい手が重ねられる。ルーナは繋いでいない方の手を用いて、裾が地面につかないよう、身に纏っている白いワンピースを掴んで持ち上げていた。
 ルナフレーナは下りる際、不安定な足元に視線を遣ることなく、ノクティスと目を合わせ続けていた。その瞳は丸みを帯びているものの、微かに揺れている。ルーナがあまりにも、じっと見続けてくるものだから、思わずその理由を尋ねる。

「オレの顔に、何か付いている?」
「あっ……いえ、……何でもないです」

 ぱっと視線を逸らし、口を濁らせる。
 ルーナの意味深な行動に、頭上に疑問符が浮かぶ。何でもないという割には、何かを訴えかけるような瞳を向けていた。何でもない筈がない。
 今度はノクティスがルナフレーナを見つめる。向かれている視線に気づいたのか、ルーナがやおら、目線をこちらに向ける。かち合う二つの蒼玉の内、片方の瞳には、真剣な表情を浮かべて、ただ一心にルーナを見つめている自分自身の姿が映し出されていた。
 ルーナは、あ、だとか、う、だとか、言葉にならない声を上げながらも、このままだと逃げ場がないと踏んだのか。観念して、白旗を上げる。そして、視線を左右に彷徨わせながら、蚊の鳴くような声で、ぽつりぽつりと呟いた。

「えっと……その……ノクティス様が手慣れていらっしゃるので……」
「――こういった経験が、豊富だって言いたいのか?」
「ち、ちが…………ちがわ、ない、ですけれど、あの……」

 反論しようとするも、言い当てられた本心を否定できなかったのか。ルーナは一瞬だけオレの方を見るも、直ぐに顔を俯かせた。そして、居た堪れなくなってしまったのだろう。その顔が上げようとする意思は、微塵も感じられなかった。
 そんなルーナを見て、内心で嘆息を吐く。
 恐らく、ルーナは、今までにオレがルーナ以外と『そういった関係』になったことがあると踏んだからこそ、先の発言をしたのだろうが――。
 オレがルーナ以外の女性にも目を向けたことは、一度たりとてない。一途に、直向きに、ルーナだけを見つめて、過ごしてきた。自分でも驚くくらい……視界にルーナの姿しか映し出されないからだ。
 ルーナがオレしかいなかったように、オレも、ルーナしかいなかった。ルーナ以外には、感情が揺さぶられることなんて、ありえない。
 ルーナが懸念するようなことは、全くない。不安を感じる必要なんて、微塵もない。
 にも関わらず、ルーナが先の言葉を紡ぎ出すことになってしまった原因は……オレにもあるだろう。口下手で、思っていることをなかなかうまく伝えられず性分を持ち合わせているオレは、いつも、ルーナは言葉にしなくても、ルーナだったら、オレの性分を汲み取ってくれるだろうという優しさに、ずっと甘えていた。
 ――それが、ルーナを不安たらしめていたというのに。
 再度、心の内で溜息を吐く。そこには、自分自身に対するやるせなさが含まれていた。
 兎にも角にも。
 懸念と羞恥とで、意識が底に落ちてしまっているルーナをどうにかして掬い上げるのが先決だろう。その方法は至って簡単で、二人の間にある空白を、隙間を言葉で埋めるだけだ。
 重ねている手を強く握りしめるなり、胸からこみ上げてきた言葉を、躊躇うことなく、そのまま口にする。躊躇ったら最後、二人の間にある溝をこの先、埋めることはできないからだ。

「……ルーナを転ばせたくないと思ったら、自然と手を伸ばしてた」
「……」
「ルーナ以外には、したことねぇよ。したいとも思わねぇな」
「……」
「それじゃ……ダメか?」

 じっと、ルーナを見つめる。すると、ルーナは顔を下げたまま、ふるふると首を横に振った。
 ……どうやら、生じていた溝を埋めることができたようだ。
 ほっと、胸をなでおろす。それと同時に、ルーナが恐る恐る、僅かに顔を上げる。その頬は、暗闇の中でも分かるくらい熟れた林檎のように赤く染まっていた。
 そして、ゆっくりと合わさる二つの視線。ぴんと上を向いている睫毛がより一層、ターコイズの瞳を際立たせており、ぱちぱちと瞬きする姿は、ルーナをより魅力的な女性へと昇華させていて、ノクティスは思わず、唾を飲み込んだ。

「ありがとうございます、ノクティス様。ノクティス様にそう言って頂けて、わたし……本当に、嬉しいです」
「なら、良かった。何度も言うようだけど、オレは……ルーナしか見えてねぇから。不安を感じる必要なんて、ないんだからな」
「はい……!」

 ルーナは、オレには勿体無いと思うほどの人物であるから、もっと自信を持っていいはずなのに、ことオレのことに関するとなると――。何故だろうかと思っても、その答えは自明だ。優しさに甘えて、感情を素直に告げていないオレが悪い。
 もう……ルーナを不安にさせたくはない。
 だからこそ、これからは、そんな魅力あふれるルーナに恥じないよう、似合うよう、内心で生じた感情は告げていこうと固く決意する。羞恥なんて、ルーナを前にしたら、そんなもの二の次だ。

「わたしは、本当に幸せものですね」

 鈴が鳴るように笑うルーナを前にして、ノクティスは早速、実行する。そっと目を細めながら、言葉を紡いだ。

「それは、オレのセリフだ」

 その声色はいつもよりずっと、優しさに満ち溢れていた。
 


material from 0501 | design from drew | 2017.01.28 minus one