名前は未だない

 美しさのあまり息を呑んだのは、人生でたった一度きりだ。あの時の衝撃は、今でも……忘れられない。
 自分の置かれている環境柄、美しいものを目にする機会は人よりも多くある。それでも、あの瞬間を超える美しさを目の当たりにしたことはない。


「ルナフレーナ様、今日はオレンジペコの紅茶を淹れてみたんです」
「まあ! イリスさん、ありがとうございます」

 とくとくとカップに注ぐ。湯気と共にオレンジの甘酸っぱい香りが鼻腔をくすぐる。普段、紅茶を飲む機会がないから――飲むのは専らスポーツドリンクばかりだ――うまく淹れられたかは分からないけれど、こんなに良い匂いがしているのだから大丈夫だろう。
 そう、自分を鼓舞してイリスはソーサーごとそっと、ルナフレーナの前に出す。透き通ったそれにルナフレーナの微笑が映し出される。
 「いただきます」と一言添えてから、カップを手に持つ。そのまま、縁を口につけ、こくりと喉が上下に動く様子をイリスは、まばたきひとつせず、険しい表情のまま見守っていた。もし、美味しく淹れられなかったら、その時、私は――。
 だが、その表情も一瞬で和らぐ。何故なら、ルナフレーナが目を見開いて、ぱっと笑顔の花を咲かせたからだ。

「美味しいです!」
「本当ですか!?」
「ええ。イリスさん、紅茶を飲まれないとお聞きしたんですが、本当に淹れるのがお上手ですね」
「そう、ですか……?」
「はい! マリアが淹れてくれたものかと思いました!」

 ニコニコと嘘偽りのない表情で褒め称えてくるものだから、イリスの?に赤みが差す。顔を少し俯かせながら小声で「ありがとうございます」と告げるや否や、込み上げてくる感情を押し流すように、自分用に淹れた紅茶を口にした。
 あの極夜のような十年間。私にも何か出来ることはないかと思い、周りの人たちの影響もあってハンターの仕事を始めた。最初は、自分より何倍も大きいシガイを倒せる筈がないと考えていたけれど――そこはアミシティア家の血が濃く出たのか、努力を重ねることで、今ではベヒーモスも一人で倒せるまでに成長した。
 平和になったとは言え、今も夜は変わりなく訪れる。だから、今でもハンターとして仕事を承っているので、必然的にスポーツドリンクを飲む機会が多い。ルナフレーナ様の言う通り、紅茶は滅多に飲まない。家にいても、飲むのはキンキンに冷えたお茶か水ばかり。
 そんな私が、ティーパックではなく、茶葉から紅茶を淹れられるようになったのは――視界いっぱいに広がる、この、うつくしい人がいたからだ。
 じっと見つめていたからか。紅茶に向けられていた視線がふいに上げられ、視線が交錯する。瞬間、大きく心臓が鼓動した。左胸にその存在を感じて、若干の息苦しさを覚えた。
 ルナフレーナはイリスの様子を訝しみながら尋ねる。

「どうかしましたか、イリスさん」
「あっ……えっと、何でもないです。ちょっと、ボーッとしてました」
「……もしかして、体調が悪いのですか? でしたら、」
「あ、体調は悪くないです! 大丈夫です! 本当、あの、ボーッとしてただけなので……」
「そう、ですか?」
「はい! って、せっかくルナフレーナ様が時間を割いてくださっているのに、ボーッとしててすみません……」
「全然気にしていませんよ。わたしはイリスさんとお茶できるだけで楽しいので」

 そう言いながら、天使を思わせる笑みを浮かべる。その表情を見た瞬間、きゅっと胸が締め付けられる。まるで、好きな人に笑いかけてもらった時のような感覚だった。ずっと報われない片思いをしていた頃の記憶が脳裏をよぎる。
 ずっと、ノクトが好きだった。幼い頃、助けてもらった時から、ノクトは私にとって「王子様」だった。ノクトには、ずっと大切な人がいるのは分かっていたけれど、逸る気持ちを抑えることはできなかった。世界が闇に包まれている間も、ノクトのことを思い続けていた。報われないと分かっていても、気持ちが鎮まることはなかった。十年ぶりに、お日様が姿を現し、それから暫くして、ノクトと再会できた時は嬉しさのあまり、わんわんと子供のように泣いて喜んだ。
 ――長い時間、ノクトに片思いをしていた。
 だけど、気づいたら、その気持ちは昇華されていた。最初から叶うことのない恋心だと分かっていたからかもしれない。
 正直、自分でも驚いている。だって、あれだけ好きだったのに、今、は――どういうわけか、目の前の人に、胸がドキドキと高鳴ってしまっている。同じ時間を共有するだけで。近くにいるだけで。変に、緊張、してしまっている。
 ルナフレーナ様のことを知った時。ルナフレーナ様は自分より、うんと年上の人だったけど、今は逆転してしまって、私の方が年上になってしまっている。それでも、心臓が騒ついてしまう。
 最初は、あまりにも言葉では言い表すことのできない美が眼前に控えているからだと思っていた。ノクトも綺麗な顔立ちだけれど、目の前にいる方は、ノクトに匹敵するくらい、否もしくはそれ以上の美しさが表れている。こんな綺麗な人と同じ空間にいることすら恐れ多いと感じてしまう(ノクトは、いつも傍にいるけれど、この美しさを目の当たりにしていて、どう感じているのか、首根っこ掴む勢いで尋ねたいくらいだ)。
 でも、最近。ドキドキしてしまうのは、緊張してしまうのは、それだけ、じゃないような気がして――。

「イリスさん、この前、ガラード地方に行かれたんですよね? その時の話を詳しくお伺いしたいのですが、いいですか?」
「あ、はい! 私もガラードの話はルナフレーナ様にしたいと思っていました!」
「ふふ、ありがとうございます。イリスさんのお話は本当に面白いので、いつも楽しみにしているんです」
「そう、だったんですか……あ、ありがとうございます」

 目尻を赤く染めながら、お礼を紡ぐ。
 ひょんなことから始まった、このお茶の時間。何をきっかけにして始まったのかは覚えていない。でも、定期的にルナフレーナ様とお話するのは、もう既に日課となっていた。
 声が震えないよう努めながら、先日のガラード地方での出来事を話す。直視すると話せなくなってしまうから少しだけ、目線をずらしている。だけど時折、視線を瞳へと向けると、しっかりとその二つの瞳と合わさって、私は思わず息を飲んでしまう。
 この気持ちは、何て呼ぶのだろう。慕情と言うには、まだ早くて。友情と呼ぶには、もうその線を超えてしまっている。
 ――イリスは未だ、この感情に名を付けることが出来ずにいた。



material from 0703 | design from drew | 2017.07.10 minus one